( néant )

消費期限切れの言葉たち

カモメ

君との思い出を書いて

君への感謝の気持ちを書いて

一息ついてから 最後に僕の本当の気持ちを書いた

遺書を書いていたつもりが ラブレターみたいになってしまって

丁寧に折りたたんで 君に渡した

 

愛だの、恋だのが冷める瞬間って、

どんな感じだろう?どんな感じだっただろう?と、

作業の合間に、おトイレしながらふと気になった。

 

小便小僧みたいな立ち振舞いで、

小便小僧みたいな年頃のような純な問いに笑ってしまいそうになるのだが。

 

 

愛が冷めた瞬間や、恋が冷めた瞬間ってないかもしれない。

突発的には冷めるかもしれないけれど、結局相手から冷められる。

女性の冷め方は、亜熱帯から南極へ間髪入れずにテレポーテーションできるぐらい様変わりでわかりやすい。

 

昨日まで、デレデレに愛した人も、

明日には「あなた、どちらさんですか?」と、隣人よりも他所他所しくなる。

 

その寒暖差・・・、高低差・・・、が衝撃すぎて

後ろ髪引かれる思いなのだろうか。

 

未練はなくても、嫌いではないし、冷めてもないし、

好きは好きだ。半永久的に。たぶんそれは変わらない。

 

男ってそんな生き物なのかしら?

 

 

男は名前を付けて保存。

女は上書き保存と昔からよく聞く。

男は犬で同じところで排泄をして、

女は猫だから排泄を隠したり消したりとか。

 

 

Twitterに呟こうかと思ったが、

なんだか、雰囲気をまとったセリフのようだったのでやめた。

キザなんだけど、やめた。

 

僕はもう疲れ切ってしまって、

ダンボール箱の中に、閉じこもっていたのはたぶん大昔の話。

 

今は青を塗って、白を塗って、一息、いいや二息もつきながら、

ネットの海に僕の気持ちを塗りたくってどうにか生きている。

 

この広くて狭くて、深くて浅い海みたいな世界を、

たぶん、生きている。

 

遺書を書いていたつもりが、ラブレターみたいになってしまうほど、愛しい人が欲しいと思って寂しくなってしまった。

竹原ピストルの歌詞は、生臭くて痛々しい。けど、棘がまったくなくて、角もない丸いものがひたすら心にあたってくる感じ。(は?表現謎)

 

カモメとおーいおーいばっか聴いている偏食マインドだけど。

マインドとか使ったらちょっとかっこよくなるな。

 

俺のマインドがそう言っている。

ドンマイ俺マインド。なんか韻も踏めそう。

韻をふむラッパーみたいだったら人生楽しそう。

散歩してても、人間観察しながら韻踏んで

とりあえずブリンブリンさげて。

チルがドープとか使ってそう。(ごめんなさい)

Nujabesとか好きですから。

ポエトリーリーディングも好きですから。

 

 

やっぱり、「心」が好きなんだと思う。

心があるか、ないかって一番大切なのかもしれない。

そんな当たり前なことをって思うかもしれないけれども・・・

当たり前だけど、結構、足るを知らない状況というかね。

心って人が常に身に着けているようなものだけど、ただのお飾りだったりすることが多いと思うのです。

心が入ってないなーとかって言葉があるように。

 

誰にも見えない心に対して、人は振り回されているのだけど

見えないもの、形として残らないものだけど、感じたり、触れたりは出来ると思うんですよね。たとえそれが錯覚だったり、事実ではなく、解釈なのかもしれないけど。

 

ニーチェおっさんの名言を借りましたけどね。

事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。

 

先人っていいですよね。

先に生れて、何もない時代、足らない時代だったからこそ、

後々僕らの世界で、名言としてもてはやされて。(嫌味)

 

ユーチューバーみたいなもんなのかな。ニーチェ

ニーチェフルーチェ食べてみた!」

 

このセンスだから、こども部屋おじさんなんだな。

一息も二息もつきすぎて、自分の思いを自分にぶつけすぎたのね。

内に投げて、内で捕まえてって、サスティナブルなネガティブですね。

たまには、外に投げて、外で捕まえる人いなくても、やっぱり投げ続けて拾ってくれるのをゆらゆら、のらりくらりと待つのもいいのかもしれない。な。

 

 

友達や仲間と呼べる少ない人達とも、疎遠なお年頃で、

一から仲良くなる熱量もないし、子供のようにただ友達だったってパターンは難しいし。ましてや、好きな人を作ることも大変で、そもそも、出会うことすら賭博のようだけど、それでも生きてくには、内から外へ嘆かないといけない。

 

 

遺書を書くのは、愛しい人が出来たときにとっておいて

ラブレターを書きたくなる人を探さないとですね。

心を込めて、心を感じって、触れ合える人が、ほしいな。

 

こころがある音楽を聴いて、こころがある映画を観たとして、

こころをよせる人間に、こころとこころでふれあって、会話して、

生きるを感じたい。性を感じたい。

 

喜怒哀楽あふれるぐらい、

口角が筋肉痛になるほど、むきだしたい。

 

ひとりで、心が入っている音楽に酔っている場合じゃないんだけど。

しんみりしちゃうな。よくないな。音楽聴きながら打つなんて。

 

 

昔の自分を思い出します。

早いネットデビュー。メル友に、ミクシィで、毎日のように話して、日記を書いていた。今と変わらないのは長文でオチがないところって残念なオチなんだけど笑

 

 

名前も思い出せない、どこでなにしているか、生きているかもわからない人たちが、

あのときの自分と関わってくれて、言葉を交わしてくれたって思うと感慨深いですね

 

もしかして、そのときは心で繋がってたのかなーなんてね。

当時から褒められるのは、文章だけだったけど、未だに活かせないって笑うよね。笑

ライティングでは修正ばっか求められるし、笑

 

 

ラブレター書きたいな。

手紙書きたい。字は汚いけど、レターセット引き出しに眠ったまんまだよ。

思い返せば昔から好きだった。手紙って文化。

小学校の頃からませたガキだったので、女の子と授業中に紙を投げて

やりとりしていて、卒業するまで残してたけど、なぜだか捨てちゃったんだよね。

今思うと、おいておいて、読み返したかったなって。

Tシャツ型に折ったりして、みんな器用だったな。

 

戻りたいわけじゃないけど、

戻れないと分かっているからこそ

なんだろう、余計に恋しくなるもんですね。

 

愛しい人もそうなのかもしれないですね。

もう隣にいないとわかって。会うこともないとわかっているからこそ、

愛おしくて悔しくてたまらないのかもしれない。

 

 

あのときは、あのとき。

いまは、いま。って、、

 

器用に対応できる技術は僕にはないけど。

 

それでも、それでもだ、

君は君で、どうにかこうにか生きている。ってなんとなく夜空に呟けば、

脳が騙されて、足るを知って、迷子の愛おしさはカモメが運んでくれる。

きっと、そうだ。きっと。

遺書を書いていたつもりが、ラブレターみたいになってしまって、丁寧に折りたたんで君に渡っていくのかもしれないな。

 

 

ただ、ただ、心を込めた、だけの言葉と思いを一緒に。

 

 


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