Everybody's Gotta Live
Everybody's gotta live
And everybody's gunna die
Everybody's gotta live
I think you know the reason why
人間は生きている以上、必ず死を迎える。
老いなのか、病なのか、あるいは自ら歩んだのか。
理由や要因は様々だけど、だれにも死は訪れる。
生きている、生きてゆくということは、
死にどんどん近づいているということである。
自ら歩みよらなくても、必ずやってくる。
時は異なれど死は差別することなく、平等に与えられる。
僕にも、君にも、いつかやってくる。
人間としての通過儀礼なのだ。
唯一言えることは、生きることも死ぬことも
どちらも苦しいことなのかもしれない。
昼時、何気なくテレビを観ていたら速報ニュースが流れてきた。
毎度のコロナか政治問題だろうなって思って目を向けたとき、
白塗りで無機質な言葉を見て、僕は久しく感じていなかった衝撃を受けて、
ただ呆然とした後、どんどん心が重くなるのを感じて、考え込んでしまった。
三浦春馬、自殺。
もちろん、昔から知っているし映画やドラマでも拝見していたのだけど。
僕は彼の特別大ファンってわけでもない。
ファンや親しい人に比べたら悲しみや苦しみは刹那的なものだと思う。
それでもやっぱり考えたり感じたりする部分がある。
僕は「世界はほしいモノにあふれてる」って
NHK番組が結構好きで、よく観ていた。
その番組のMCは三浦春馬とJUJUがつとめていて、
見れば見るだけ好感を持てる人だったとの、よく調べてみたら同年齢だったので誠に勝手ながら親近感を持っていた。
残念ながら、見た目はかけ離れていて似ても似つかないけども
容姿端麗でハンサムなのに嫌な感じもしなく、好印象しかなかった。
その番組を観ながら、羨望の塊で「三浦春馬になりたいなぁと」筆ペンで書いたメモをストーリーにあげたぐらいだ。
最近もその番組を観たので、びっくりしたのがとても大きかった。
衣食住も十分すぎるし、名声もそれなりに得ても辛いものは辛いんだろうなって
何も持っていない僕の辛さがぶっ飛んだ気がするほど衝撃だった。
自殺した理由や要因は本人じゃないし親しい人でもないし知るよしもないのだけど、
自ら死を選んだってことは相当な苦しみがあったのだろうと思うのは容易い。
共演者がバッシングされたときに、
攻撃的なわけでもなく、すごい擁護するわけでもない気を遣ったようなツイートをしていたこともあったから、元気そう。不自由なさそう。と見えていてもとても感受性が敏感だったのと思う。
よくある何も知らないのにペラペラ喋ってって枠に僕も入ると思うけど
知らなくても喋りたいし、結構今回は考えさせられる出来事だったので語ります。
すいません。
これは、なんのソースもないし、僕の超個人的な考えで述べているだけなのだけど、
現代人が病む理由の原因の7割強はSNSだと思う。
手軽に繋がれて、励ましや慰めもあったりして救いになる一方で、言葉が必要以上に誇張されて意味以上に力が増幅されていつでも牙を剥くし入り浸ってしまう中毒性を孕んでいる。
そして、知らず識らずに誰かを刺していたり誰かに刺されていたりする。
僕が十代のときSNSって言葉自体浸透していないとき、現在みたいに誰でもtwitterやinstagramをやっていたわけじゃないときは確かに救いになる方が大きかったと思うんです。
それは、やっている人も少なければ、認知もされていないから、
ある種、リアルな世界での人間関係で躓いたり悩んだりしたときの逃げ場的な役割もあったから、そこの繋がりだったり言葉ってのは大きな救いだったと思う。
でも、今は良くも悪くも発展しすぎていて
誰でも簡易的に始められて、裏表の境目もなくなるほど本音を吐露できたりする。
例えば当時ネットにいなかった、リアルでの嫌な人間関係だった人も今じゃ普通にSNSに存在していてSNSとリアルな世界を隔ててた壁が取り壊されたような感じである。
距離が近いことが重宝されるけども、疑問でしかない。
距離が近いということは、相手を傷つけることも相手に傷つけられることもできてしまう。
告知や宣伝、認知を広めて売上に繋げたりと
今じゃなくてはならない存在かもしれないけども。
僕はSNSをしていない芸能人が好きである。
あるいは、事務所がつぶやいたりする芸能人。
わざわざSNSを始める芸能人の心理が謎である。
うまくコントロールできたり割り切れる人じゃないと絶対やらないほうがいいと思う。
SNSには刺激もたくさんあれど、それは良いものばかりではない。
心を病んでまで、疲れてまでも入り浸る必要性も価値もSNSには絶対にない。
そもそも、芸能人のプライベートなんて見たいとも思わないし、
どんな性格や習性かなんて興味もなければ知りたくもない。
好きなアーティストの「音楽」が好きだし、好きな俳優の「演技」が好きだから画面越しで見て満足である。
直接、接したわけじゃないのに画面越しで一体何がわかるのかって思うけども、世間はそうじゃないらしい。
今は身近な様子を見せたり、プライベートを晒して、
より親近感をだしてファンに近いほうが好まれるらしい。
フォロー数やいいね数が人気の基準になる世の中なんてクソ以下だと思う。
この風潮ははっきり言って良くないと思います。
また、誰かが命を落とすのも時間の問題だと思う。
僕がSNSを始めても0からのスタートだけども、
芸能人がSNSをすると、何百何千何万といった味方(ファン)が最初からいる一方で
その人を嫌いな人や気に食わない人にもたくさん知れ渡るきっかけとなる。
そんな中で声を上げても、一定数の称賛もあれどバッシングする人が出てくるのも当然の現象のなかで、お互いがまた声を上げて、言い合ったり排除したりととイタチごっこである。
正直、好きな人や味方だけで肯定されたらいなら何故身内だけで繋がらないのだろうと疑問に思うけども、そんな問題を見聞きするだけですら疲れる、大変生きにくい醜い世の中であることには間違いないと思う。
味方が大勢いる一方で、それは芸能人として名が知れ渡っているからこそで、
その名のまま、何を呟くのか取捨選択も容易じゃないほど影響力もあるわけです。
商品名が話すのと、商品開発者が話すのは全然意味合いが違うじゃない。
もちろん、匿名で相手を罵ったり非難することは、
絶対に認めてはいけない事実だけれども。
芸能人でも、僕らでも単純に好き嫌いは誰にでも存在している。
それは人間としての習慣で、無理して我慢していい顔をすることができても、
根本的に受け入れるということは簡単なものじゃない。
それを無くそうといっても、戦争は起きるし、We are the worldを作った国でさえ人種差別でバラバラなのだからとてつもなく難しい。
人種差別といって大きな問題じゃなくとも、
日頃から僕らは誰かを差別したり先入観で判断したりしているかもしれない
これを言ったらきりがないかもしれないけど、好き嫌いも差別に入れようと思えば入るわけでね。
嫌いな人に文句を放ったこともあるだろうし、喧嘩して言ってはいけない言葉をぶつけたこともあるだろう。
それは、友達だったり関係性が存在しているから許されたり許したりしてきただけである。
SNSをやるなら、
病まないように感受性が鈍化してきてからか、
やっぱり上手くコントロールできて割り切れる人だけ始めたほうが良いと思う。
心を蝕んでまでやる必要はないと思うんだ。
「そこに本当の愛はあるのか?」ってすごく深い台詞だと思うんだ。
僕は、向いてないし病んだからSNSに入り浸るのやめたし出入りしなくなった。
案の定、繋がりも薄くなったし寂しさも増幅したが、代わりに病む機会もほとんどなくなった。
でも同い年だし、やっぱりショックで考えるものがある。
不謹慎かもしれないし暗いことかもしれないけども、
僕も18,19のとき自ら死を選ぼうとしたことがあるから尚更。
未遂で終わって、今もなお生きているけども、
あのとき死ななくてよかったって思うことは恥ずかしいことにほとんどない。
今でも、生よりも死の方を眺めることが多いクズだ。
自ら死を選ぼうとした人、死にたいと思っている人、思った人はたくさんいると思う。
都合良くなったり、便利な世界になればなるほど、増えると思う。
その人たちと、選択して死んでしまった人たちとの苦しみを比べてはいけないし、辛さや苦さも抱えきれないほどみんな持っていると思います。
選んだ人、選べなかった人との差は勢いだったり衝動の強さだけだと思います。
いつでもみんな引き金は既に引いていて、人差し指が震えながらも保っている状態なんだと思う、勢いや衝動の強さで引くまでの間隔が短いかどうかだけだと思う。
今もなお、自殺者数は世界で上位な国ってだけで、
理由を問うことは不必要だと思うし、自殺することを責めたり非難することは言語道断だと思うけども。
どうしようもない大きな問題で、変えるには時間がかかるかもしれない。
それに、僕はどこかの一部の芸能人みたいに偉そうなことも理論的な事も言えないし、
生きてたら良いこともあるよなんて無責任なことは口が裂けても言いたくない。
なぜなら、生きるということの大半は辛いことや悲しいことだと思うし、そんな中で本当に些細で刹那に消えゆく小さな幸せな瞬間が稀にやってくるだけで、その瞬間のために生きてたりしてって人間は非効率ないきものだとさえ思っているから。
でも、あのとき死ななかったから出会えた好きな人達もいたりするので、五分五分だけどってしか言えないけどね。
I saw a blind man standing on the corner yesterday baby
He couldn't hardly tie his shoes
But he had a harmonica and a guitar strapped around his neck, and he sure could
He sure could play the blues
(Everybody's Gotta Live - Arthur Lee)
靴紐が結べなくても、彼はハーモニカとギターでブルースを弾くんだよ。
できないことあって、できることもある。
短所は悪いことではなくって、誰かにとっての魅力でもあるかもしれない。
みんな生きて、みんな死ぬ。
せめて生きている間くらいは、微量ながらも認めあって、理解しあえたらいいな。
きれいごとじゃなくってね、みんな何かしら抱えて生きてるんだって思うと寄り添えなくもないだろうから。
今日は、この曲が聞きたくなって聞いたらやけにしみるんだ。
もし病んだら、たくさん休んでたくさん吐いて、
たくさん捨ててたくさん叫んでほしいなと思います。
僕は今も昔も変わらず、その都度病んだりした人がいて求められれば
いつでも話をいくらでも聞きたいな、共有したいなって思っています。
それは助けたいとかそんなことではなく、
一人の人間として、一人の人間と心から向き合って話したいからであって
それは誰でも、なにか特別なものがなくても、スマホがなくてもできるものだと思っています。
影響力はないけども、僕が書き連ねた言葉で
気分を害したり嫌な気持ちになった人がいて
結果的に言葉で刺してしまっていたら大変申し訳無いです。
いつもどおり長くなりましたが最後に、
僕にとって三浦春馬は今でも羨望の塊であって
今もこれからも「三浦春馬になりたいなぁ」って思っています。
特別ファンってわけでも、
もちろん全く接点もないけども理由を知るよしなくても
おつかれさんって思っています。
同い年なんで、タメ語にさせてもらいます。
JUJUとの掛け合いも紳士さを感じるゲストへの接し方も、見ていてい心地が良い番組でした。
男からみてもハンサムな俳優でした。
Arthur Lee Live 1990 - Everybody's Gotta Live