( néant )

消費期限切れの言葉たち

5.2. 天寿

明日はシーミー。

シーミーとは清明祭といって、沖縄ではメジャーな行事である。

一年に一回、お墓に行って親戚みんなで手を合わせ、墓の前でみんなでご馳走を食べる。

それが、シーミー。

 

明日のシーミーに合わせて今日墓掃除に行った。

明日はみんな集まってシーミーをするはずだったから。

だけど、それは無くなった。

 

8時過ぎほどに父から連絡がきて

祖父が亡くなった事を告げられる。

満100歳だった。

 

 

ここ数年、祖父は病院に入院していた。

入院といっても、意識はないに等しく寝たきりな状態だった。

父や母は僕らに元気な姿の時を覚えててもらいたいからといって

僕は病院に移ってからはお見舞いに行った事が無かった。

だから、ここ数年の祖父の様子を聞かされていても、想像出来るのはまだ車いすや杖をついていた姿で、父に似てあまり笑わず寡黙な祖父が自分の名前を呼び、覚えてると伝える姿だけだった。

 

父は長男であり、僕も長男である。

沖縄だけではないだろうけど、長男は仏壇をもつし、大抵は家を継ぐ。

昔からの風潮だろうし、今の時代に無理に当てはめることはないだろうけど。

 

父が長男だったし、昔は祖父も一緒に1つ屋根の下に住んでいた。

僕らが大きくなる頃には祖父はすぐ隣に家を建て1人で住んでいた。

というのも祖父の奥さん、つまり僕にとっての祖母はぼくが小さい頃に交通事故で若く早くに亡くなった。

僕にはもちろん祖母の記憶は全くないのだが、逆に祖父との記憶は数え切れないくらいある。

 

隣に住んでいても朝昼晩のごはん時間はこっちへ来て一緒に食べていたし。

祖父も口数少なく笑うことも少ない人だったし怖い顔の方がどっちかといえばに似合うし、それをそのまま受け継いだ父と2人並んだ食卓なんて今思えば、テレビから聞こえてくるナイター中継の歓声が唯一のBGMだったのを今、昨日のように思い出して笑ってしまう。

 

僕が中学行かなくなった時にはとびっきり心配してたっけ。

新興宗教にハマって、僕を九州に連れてくと言ってたっけ。

懐かしいな、おじい。

月に一回は祖父が好きだった中華料理屋に祖父の奢りでみんなご馳走になったよね。

今じゃその中華料理屋も無くなったんだよ、おじい。

ケンタッキーも好きだったよね。

おかげでケンタッキーの皮の旨さに味を覚えたよ、おじい。

 

 

僕は3歳からゲーマーで、どでかいゲームボーイを持っていたんだ。

電池が無くなるとさ、祖父の家に走っていって冷蔵庫に入った単三電池を貰ってたんだ。

 

冷蔵庫にはいつも単三電池がストックされていて、オロナミンCもよく入っていた。

 

電池を冷蔵庫にいれてた理由も今じゃ聞けないけど、それでいい気がする。

冷蔵庫に電池をいれる祖父だっただけのことだろうから。

オロナミンCを子供に飲ませちゃダメだよ、止めてくれよ、ふくよかになっちゃったじゃない。

 

祖父は孫と遊ぶ感じではなく、会話も少ないから言葉を交わした想い出なんてほとんどないに等しい。

勝手に怖がっていたしね。

 

でも、祖父が歳をとって弱くなってゆく姿もずっと見ていた。

朝昼晩、時間になったらごはんを食べにくる祖父がいつしか、杖をついてくる姿、それから手押し車になって、後ろから倒れないように僕が付いたりして、最後の方はもう家にごはん持って行って食べていた。

要介護を受けてからは母が食事介助をしたりと。

長男の嫁である母が1番気疲れしただろうし、苦労しただろうし、素晴らしいなって今、改めて尊敬した。

 

僕も隣に住んでいた訳だから、肺炎なったときは父と2人で車まで支えて運んだし、ごはん呼びに行ったら倒れて起き上がれない祖父を起こしたこともあったけど、僕がしたことなんて母や父に比べたらなんでもないことだ。

 

肺炎を患ってからはどんどん弱くなって幻覚をよく見ていた。

家が燃えてると慌てて出て来て転んだこともあったし、家に知り合いが来てると言ってたけど名前を聞いたところ、父が言うにはみんな死んでる人だったりとか。

 

だんだん、弱くなって。

だんだん、おかしくなっていた。

 

死を迎える人は、死の直前に御迎え現象があるらしい。

それは、亡くなった人達が現れたり亡くなった愛犬が現れたりと前兆があるのだが、祖母は見ていないから大丈夫だねってみんな笑いあってた。

 

それから何年も経った。

リハビリ病院にいたり、有料老人ホームにいたりして、でも最後は寝たきりで病院にいた。

 

僕は寝たきりで意識はないと聞いて、そんなの生きてるじゃなくて、生かされてるじゃないか。とずっと思っていた。

意識もない状態で生きてる方がかわいそうと。

でも、安楽死なんてタブー扱いだし、尊厳死はわりと緩やかな風潮だったりと、同じじゃないの。なんて思ったりする。

でも、そんなの孫の自分が言う立場ではないし僕の意見は大抵全て聞いてもらう前に反感をかうか、変な目でみられるから言わないでいた。

 

 

でも、それで生きてるとは言わないとずっと思っている。いまも。

 

だけれども、看護師が言うには3日前から祖父はずっと『家に帰りたい』と言っていたらしい。

もちろん父や叔父なども半信半疑で半疑の方が強めなのだが。

 

もし、それでも生きていると祖父が感じていたのなら

ずっと帰りたかったはずだ、我が家に。

寝たきりで話せない動けない意識もほとんどない状態で息をしているだけで生きてるとは思えないのだが、祖父はずっと帰りたかったはずなのは確かだと分かる。

 

 

ようやく

ようやく

帰りたかった我が家に戻ったとき

祖父は死に化粧に、死に装束。

 

それでも嬉しいだろうな。って

だって我が家だもん。

家族みんなが集まったもんな。

線香に見慣れない白装飾に手をあわせる僕らは異様だろうけど。

おかえり、我が家だよ。

我が家に戻って、おじいの前にみんないるよ。

 

なんだよ、おじい。

昔と変わってないじゃん。

あの時と変わってないじゃんか。

前みたいに目を開けたまま寝てるみたいじゃないか。

目があってるようだよ、おじい。

1人になったときに、僕は祖父の顔に触れてみた。

少しばかり怖かったけど、冷たかったけど、優しかった。

冷たかったけど、祖父は祖父のままで。

怖かったイメージを覆すように穏やかな顔をしていた。

やさしくて、きれいだった。

 

 

人が死ぬときはいつだって悲しいものだろう。

葬式や告別式が得意な人もいないだろうし。

生死はいつも隣り合わせで、僕らは生を受けてからはずっと死に向かって生きているはずなのだが

生の誕生と死の時間とではこうも違うのかってくらいな雰囲気に違和感さえ覚える。

だって、誰しも死がくることはわかりきっているはずなのにと。

でも、こういうことを口に出して仕舞えばまた煙たがられる。

だから、ここで書いている。

やっぱりどうしても暗い雰囲気があって、すごい苦手なのを改めて感じた。

 

死の理由にもよるだろうけど

祖父は100歳だった。

大往生だった。

葬儀屋は『天寿』です。と説明した。

お疲れさん。と言うしかないじゃない。と思った。

僕には素晴らしいとしか言えないよ。

一世紀どころか、半世紀も生きたいと思ってないバカ孫なのだから。

おじい、僕はあれから何にも変わってないようだ。

恥ずかしいよ、立派になったの見届けて逝って欲しかったよって都合よく思ってしまう。

 

生死は隣り合わせ。

そう、分かったつもりでも

今日考えてみた、父や母が亡くなったとき僕はどうなるだろうか。と。

怯えた、恐ろしく怖い。

人間が嫌いで、好きだから。

別れにはとても弱いはずだから。

でも、いつかはいなくなる。

いつかは無くなると考えて生きてるうちに孝行しないといけないと強く思った。

 

1つばかりの彼女との別れにでさえ未だに堪えてる自分だ。

あらゆる別れに敏感になるが故に、友達もさほど求めないし、彼女も欲しいとは思わない。

死が別れだとしたら、僕は一生知り合いを増やしたくないとも思う。

 

 

 一世紀どころか、半世紀も生きたいと思えやしないのだから。

 でも、どんな理由であれ

 

生死は美しくあるべきだ。

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