はてなブログ10周年特別お題「10年で変わったこと・変わらなかったこと」
10年前、僕は21歳だった。
成人式を終えて、遅れながら短大へ入学する年だった。
その前の3月には東日本大震災が起きて、テレビで見る光景はまるで異国の出来事のように思えてしまって信じられなかった事を未だに覚えている。
当時、仙台に同じい音楽のジャンルが好きで仲良くなったメル友(懐かしい)がいて、何も出来ないけれど心配で何度か連絡した記憶もある。
数日経って返信がきて、彼女が無事でよかったと思う反面、それ以外の言葉はなんだか無責任な気がして伝えられなかった。
きっと、一生忘れられない年だろう。
それが2021年から遡った10年前だった。
後にも先にもここからの数年間が、
現在進行系で歩んでいるこの人生において最も印象に残るチャプターである。
数少ない酸いも甘いも噛み分けられた、何度も噛み、すり潰し、未だに反芻したいほど記憶にも記録にも残っている「僕」という人間の縮図である。
死んでしまうとき、走馬灯にのせてくるのはきっと10年前から始まった再人生だろう。
前置きから長くなってしまったが、
10年で変わったこと、変わらなかったこと。
僕は変わらない美しさを推奨してきたので、反体制変わる派なのだけれど。
そういったひねくれた部分は全く変わってないとおもう。
良くも悪くも、こんな性格だから出会った人もいて、逆に失った出会いもあるだろうけれど、そんなもの考えたらキリがないもので、そもそも物事には必ず対義語があって、両極がきれいに交わることなってないと思っている。
星野源もばらばらと歌っているし、きっと重なりあうことはできても、
それは錯覚のようなもので、数ミリ単位でずれていると思う。
一生交わって、交わったままで終えることはない。
僕らはずれているから、だからこそ他者を求めるものだとつくづく感じている。
ズレている事に気がついて、そこを修正したくて、あるいは無いものとしたり、ズレを良し思わせてほしくって、繋がり合っている気がする。
「あなたのそのズレが好きなんだよ」なんて、
リュック・ベンソンの「アンジェラ」に出てくるようなかっこいい美女に言われる夢を未だに見ている。
馬鹿げた夢だけれど、一度だけ好きな人に言われ事がある。
「クズだからあなたのこと好きになったんだよ」って、
一見。うん?それひどくない?いやいや、ヤンデレカップルかよ。だの声が聞こえてきそうだし、実際友達に話したときも「は?ひどい」的な事を言われたことがある。
だけれど、僕はものすごく嬉しかったんです。
未だに覚えているセリフなほど、まるでショートムービー撮りたいぐらい。
クズだから、クズな部分がってことではなくて、ありのままを全部ひっくるめて理解されて愛されたようでね。
そんな悪いクズじゃなかったからだろうけれど。。
こういう所は一切変わっていない。
ひねくれを人間臭いだけだと、日々損を感じつつも、
どうにかこうにか、頑張ってこれが正統派だとやせ我慢するところ。
それでもって相変わらずの長文で一つの文が更に長く、読む人の気力を削ぐ所。
10年前から始まる学生生活で出会った好きな人に、
卒業して久しぶりに会ってドライブした際に、
僕の変わらないところが素敵だと褒めてくれた事を覚えている。
当時は、変われないんだ、変わる勇気がないから、変わっていく人達が羨ましいと褒められて気がしなかったけれど、今はちょっと分かる気がする。
あの日から、褒められる機会や人とたくさん出会って友達がいてって何かが変わったとか増えたとかじゃなくって、むしろ失っているだけだけど、なんだか分かる気がする。
人は成長する。進化する。変わる、ちょっとずつ変わっていく。
時間は取り戻せないし、巻き戻せない。僕らは老いる。
変わっていく人やモノ、環境・街並みが普遍的な世界に生きてて、
何かしら変わらないものや信念があるだけ、誇らしいかもしれないとちょっと自分に甘くなった。
っていう所は10年前と大きく変わった所かもしれない。
ひたすら丸くなった。体型もより丸くなって、進化している。
感情や思考に必要以上の尖りはなくなったし、穏やかな日々が増えた。
自分に優しくなれたり、他者の幸せに間髪入れずに祝福の言葉を贈る事ができるようになった。
(※根本的に色々鼻につく世界観はかわらないけど)
きっと優しくなれたでなく、丸くなったでもなく
単純に10年を遡って覚えているほど生きてきたということは
年を重ねて、繊細な感受性も鈍化していって、良くも悪くも図太くなったってことだろう。
10代の性衝動のように、走り出す勇気や気力の前に
スタートラインに立つ為に腰を上げることすら億劫になったり、
感じることで吸収して装飾して放出していた感受性が、
今はただただ蓄積して廃墟になるばかりで、無駄に生きることに耐性がついて、
強さの皮をかぶっためんどくささだったりして。
当然のように、人とのつながりは減っていく中で
疎遠になっていくなかで10年前の様相を再現することだって不可能に近い中で、
10年前の僕たちを思い出して切なくなって悲しくなって秋の空にたそがれていたいぐらいには色んなものを失っていったことで、それでも尚、生きている。ということで
無駄に、自然治癒力的に生きることに耐性がついて、
生きるということに鈍感になっていっただけなんだと思う。
性格や人間性といった部分では、10年そこらで根本的には変わらないと思う。
趣味や嗜好だったりは変わるかもしれないけれど。
相変わらず、音楽と珈琲と映画にしか詳しくも好きでもなかった退屈な人間な僕自身でも、音楽は発掘するわけでもなく10年前から好きだったものをヘビロテするばかりで、去年まで毎日のように観ていた映画も、今は一点集中するのがなんだか億劫でまったくみてなかったりする。
探さなくてもAIが勝手に自分の好きな音楽や映画を勧めてくる事に腹が立つし、便利、ありがたいなんて気持ちに一切ならず、反サブスクで生きている。笑
わかっちゃいるよ。わかっちゃいるよ。おいらだってよ。と寅さんの気分で申すけれど
確かに便利だよ。探す手間も省けて、時間が少ないと言われる現代人や映画を倍速で観る人が増えていると耳にする現代にとって、ありがたい仕様で、またミスマッチもなくパーフェクトなわけでそりゃみんな大喜びですよ。
でもね、わかる?そうやって見つけた感動や喜びは一瞬なのよ。
余韻がまったく残らない。刹那的な感動で持続しない。
ほら、話題のSDGsに逆向する感覚しか残らないのよ。
自分で探し歩いて、たどり着き見つけた宝物じゃないから、
目が覚めたらサンタから毎日プレゼントが届いたようなもんだから、
最初だけなのよ、すべて、虚しいもの。
まぁ僕が頭でっかちで考えすぎているだけとわかっているけど。
なんだか切な虚しいのよ。
結構毛だらけ猫灰だらけなのよ。
僕らは”ゆとり世代”のど真ん中被害者だと思っていて。
デジタルとアナログの分岐点というか、中途半端な立ち位置に
見事にハマったやっぱり被害者世代だと思うんです。
楽園の上を歩まされたけれど、実はそこは荒野でなにもなかった。
そんな気がする。曖昧で半端に便利と不便をダウンロードさせられたから感情のアップロード先がわからないのよね、いつまでたっても。ってちょっと上手い事言った気分、ぷ
ほら、「ぷ」とか古いでしょ。
俺の話は長いって大好きなドラマでも主人公が言ってました。
昔見た映画の名前を姉弟で思い出そうとしていて、姉は爪を切って、弟は銀杏を剥きながらそんな昔話をしているところに、姉の娘が来て「スマホで調べたらいいじゃん」って言うわけですよ。 「時間の無駄だと思うけど。」って
わかります。僕が好きな清原果耶が言うんなら、スマホで調べます。
そして、実際に自分がその立場でもすぐ口走ってしまいそうなほど実に現代的に現実味あふれるツッコミなのだけれども。
それに対して、生田斗真演じる主人公の弟が言い放つのだよ。
そうやってどんどんつまらない人間になってたらいいよ
最短の時間、最短の距離で歩く人生に面白い木の実は落ちてませんから。って
面白い木の実ってなによって返す姪っ子に、
ナビもネットも使わずに遠回りした人だけが見つけることができる小さなご褒美のことと諭すのよ。
それがね、すごくすごーーーーく心に沁みてしまったのよ。
なんか便利な向かい風が吹くたび、無駄に立ち向かいたくなるのよ。
必要か、不必要じゃなくって。
急用か不急かじゃなくって。
答えがあるものすべてが正解じゃない気がするのです。
無駄なものほど実は面白いかもしれないのに。
理由ばかりを探して理由ありきで人と会ったり、友と疎遠になったりって
そんなこんなで年をとってしまったから余計に感じる。
ムダほど美しいかもって。
僕が答えを探さなくても、理由を見つけたりしなくても
大抵の人がマニュアルどおりの正解を示してくれる。
だから外れたモノ、そのまま外れでいこうかと。
LINEやインスタができたら、
手紙が恋しくなったりしたものだから
こうやって、また一年一年と後ろが恋しくなってしまうんだろうな。
まさにこのブログを書いている今だって無駄そのものだ。
人に知られることもなく、曝け出せるほど実があるわけでもない。
短い文章で座布団を貰えるぐらいのユーモアもないし、
長々と時代遅れの無駄極まりない言葉を綴っている。
自分のため?って思っていたけれど。
自分のためも結局誰かに認められたいから生まれるものかもよって。
10年経って変わったこと、
君の事を思い出さなくなったこと。
10年経って変わらなかったこと、
君の事を忘れたいないということ。
あらま、ろまんてぃっく。