( néant )

消費期限切れの言葉たち

幸福露出狂

人のSNSを見ると幸せそうに思えて自分を窮屈にしてしまうから嫌いだ。

 

知人だからと、好きな人だからと

人のSNSを見たいと思わないし

興味もないのだけども。

消すこともできない。

なぜなら

僕は大衆に見せつけたい

僕の醜態がたくさんあるからだ

 

 

 

自分だけのアカウントで

晒け出せるものと

誰かが存在していて

晒け出したいものは

まったくの別物だ

 

承認欲求といって仕舞えば

話はこれで解決するのだが

もっと、複雑な気もする

 

自分だけのアカウントで

投稿することもあるのに

だれかがいる場所じゃないと

吐きださないこともあるけど

 

元を辿れば、原点は同じで

根深い孤独をまとっている

 

よくいいねをくれる人がいるけども

この人達はたくさんフォローしていて

全部見る技術が優れているのかとも思うし

適当でちゃんと見ているわけじゃなく

親指か人差し指で擦りたいだけなのかとも思う

 

僕の親指はどちらかと言えば

下にも上にも擦ることなく

最短距離で投稿画面を開き

終わるとバックグラウンドごと消している

 

 

 

色々考えたりして、

唾を吐きたくなるから

自分の中にある劣悪な部分を

自分自身が体感したくないのが

本当の理由だと思う。

 

喉から手が出るほど好きな人の日常を

見たいとは思わないのも

きっと、見た後に

無駄心中してしまうからだろう。

 

 

他人に左右されて、他人に作用される

それがすごく弱いメンタリティの証だと思う

なんでも気になって、老いを感じ、時の残酷さを知った気になって。

より孤独を優しく抱きしめて、自ら育み誇張させて孤独に喰われる。

 

でもよく考えてみると

SNSなんてものは

元はと言えば

幸せな瞬間しか載せないものだ

 

意図的か無意識かは分からないが

人は人に幸せを見せ付けたがる習性があると誰かが言っていた気がする。

とんだ習性だ、冷酷なまま内面からじわりと毒をまわす。

あるいは、心臓の中から刃物を突き刺すような気分である。

 

裏垢なんてものじゃない限り

人はいいものを見せたがるのだ

Instagramなんて格好の場所

日常の欠片をベストショットにする

1つのピースが絵画として成り立ってしまう

 

買ったもの

行きたかった場所

友達・好きな人と同化した景色

 

みんな、幸せそうに見えて。は

平常な状態で当たり前なのかもしれない

 

からしたら

飾った外見や花を添えたテーブルよりも

腐れかかった肉片や折れかかったぼろぼろの心中をお察ししたい限りだけど。

そういうとこは普通ならば見せたくないものなのだろう。

 

 

見えてるものはつまらない

見えないとこを舐めまわしたい

 

 

そう言っても

時代の変化を感じると面白い。

 

10代のときは

彼氏と別れた、とかまってと嘆いてはすぐ彼氏できたりする人が今じゃ子どもの成長をひたすらSNSに載せたりしている。

20代前半のときは

仕事の愚痴か再会を果たした友とのイベントを盛大に載せている人が今じゃ落ち着いてディナープレートを載せていたりする。

 

 

ぼくは一体なんのために生きて

何を見せつけられてるのか不思議な気持ちになる。

ぼくは変わらず言いたいことをひたすらいうだけの投稿に変わりはない。

誰かに伝われば嬉しいな。

いや、誰かに伝わってほしいと思っている

針の穴を通すかのように、周波数が合致した人をきっと探し続けている。

 

僕みたいな人は、自分から行くと全て壊してしまう。

僕に用がある人は、たいてい話を聞いてもらいたいだけで、話が済めば知らぬ存ぜぬである。

 

被害妄想なんかじゃないさ

本当にそんな人ばっかなんだ

 

割り切って仕舞えば楽だけど

やはり人間だから少しばかり寂しくなる

そんな人に限ってこっちから求めたら店じまいするのだから

 

とはいえ、

僕を求めてくれた誰かもいてくれたはず

僕はその人たちを前に彼女らと同じように店じまいを始めていたと思う。

 

 

なんでだろう

なんで、好きになってくれる人を

好きになれないのだろうか

 

ドMなんかな

 

わかんないや

 

好きな人はいつだって

違う誰かを好きで

手に取れない人

 

そういう人が好きなのか

ばかたれだなあ