未完成な早漏
先日、友達と一緒に55歳になるおじさんおばさん達の大規模な中学の同窓会模様を撮影しに行きました。
友達はプロなんですが、僕は当たり前に素人なんですけど、一眼を構えて円卓を4時間程ずっと回っていました。もちろん、筋肉痛になりました。
55歳の同窓会ということで、中には若いおじさんやおばさんもいましたが、それなりの55歳って感じのおじさんおばさん達がほとんどだったんだけども
なんか、すごく羨ましくなっちゃって。
カメラ越しから彼らを見たらなんだか過去が恋しくなったりしました。いつもなんだけど。
この時ばかりはいつもと違って、気持ちが良い恋しさみたいで、イメージでいうと、笑みをこぼしながら冬の大三角を見上げる感じですかね。意味わからないけど。
なんかね、普通のおじさんおばさんなんですよ。
たしかに、シワもあったり、髪の毛なかったり、亡くなってる人も20人ほどいるそう。
だけどね、このとき、この瞬間
中学時代に戻ったかのように、皆さま楽しく無邪気に盛り上がっていて。
盛り上がっていた気がする。気がする。かもしれない。
人の感じ方なんて、その時の状態を左右するだろうし、勘違いだったり思い込みすぎかもしれない。
でも、カメラを向けながら僕はずっとそう感じていた。
何歳になっても、青春時代は蘇るだろうし、生身は変えられないし、あの日を変えることも出来ないけど、想い出だけはいくらでも取り戻せるのかもしれない。
この人はリーダー的存在だったんだろうな。
この人はクラスのマドンナだろうな。
この人はいつもバカしてムードメイカーだったんだろうな。
この人はやんちゃで先生に迷惑かけるワルだったんだろうな。
って自由に、あまりに気持ち良いくらい自己都合的に妄想してしまった。
結局、予定より1時間も押して腹減り喉乾き状態で友達と遅めの夕飯を食べに行った。
何処にもあるようなファミレス行ってハンバーグ食べながら友達と何処にもあるような話をする。
55歳にもなって200名以上の同窓会を開ける事がどれだけすごい事なのか僕たちはわかっている。
俺らだったら3名集まれば良い方だよな。なんて、笑いながら腹を満たすのが最優先ながら僕には思うものがいくつかあった。
そうだよな。俺らだったら集まらないよな。みんな仲良いってわけじゃないし、幹事タイプもいないし、だからって、自分らで幹事したいほど思い入れもあるわけじゃないしな。
って、不可思議の『pellicule』が脳内をエンドレス。
でも、なかなか心地よかった。
単純かもしれないけど、そんなありふれた話を、ありふれた笑いで、ありふれたファミレスで、ありふれたハンバーグを食べながら、ありふれた日常の中に僕がたしかに居座れてる事がなんだか気持ちよかった。
周りを見渡して、テスト勉強そっちのけで談笑する学生達、僕らみたいに単純に飯を食べに来ただけのようなおじさん達、深夜まで続きそうな井戸端会議なおばさん達。
僕が見えている世界は、たしかに生きていて、存在している。
その中で、僕も存在していて、周りからどう見えているのか気になる。水を何回も飲む人に見えてるかな。美味しそうに飯を食べる人に見えているだろうか。または怖い人に見えてるかな。
僕が見えている世界だから、見えているから当たり前なのだろうけど、当たり前だと思わなかった思えなかったから、あのとき心地よかったのだろう。
当たり前に誰もが通る道であっても、僕は通って来なかった事がたくさんある。
通れなかったのか、あえて通らなかったのか理由は色々考えられるけど。
誰が聞いても、なんてことのない出来事やシチュエーションが僕の中では新鮮で感慨深い事がある。
数時間だけど仕事終わりに友達と不味いのに心身染みるタバコを吸って、腹が減ったってごはん食べにいって、いつもと変わらないお題で笑いあってくだらないやり取りをしながら酔っ払った友達に誘われてサッカーゲームをして帰りたいのに帰してくれない朝方。
僕はいま、普遍な日常をすごく愛おしいものだと思える。
間接的だがおじさんおばさん達に感化されたのかもしれない。
あの空気やあの温度が、冬空の下、外気より冷めきっている僕の心身を包んで人間に戻してくれたのかもしれない。
話しながら思い馳せる事が出来て、一つ一つの瞬間を切り取る事が出来て、周りに目をやって他者の人生を妄想する事が出来る。
人が笑うとこで笑えなくて。
人が泣くとこで泣けなくて。
人が悲しむとこで悲しめなくて。
人が苦しむとこで、苦しめない。
生きる。に関して、普通の人よりも不器用な僕だけど、不器用な僕だからこそなんでも考えすぎな僕だからこそ、ありふれた日常もどこにでもあるような風景も切り取って頭の中に画にする事が出来るのかもしれない。
それは生きる救いであって、災難かもしれない。
だけども、他者からみたらどうって事ない風景も切り取れるお陰で僕は今、生きている。
見えている世界に人がいて、その人達からも僕は未だ見えている。
そう考えると、僕にはまだまだ幸せを感じられる瞬間がいくらでもある。
誰も何も感じないような出来事でも僕には未体験なものがたくさんある。
マックでテスト勉強はもうできないけど、ポテト咥えながら談笑はできる。
柄が悪くて迷惑だろうけど、飲んだ帰りに立ち寄ったコンビニでまた同じ話で笑おうか。
思い立ったかのように手を繋いでそこらへんを散歩でもしようか。
イヤホンを片方ずつ分けて音楽を聴いて、僕らのサウンドトラックを作ろうか。
僕にはあまりにも似合わなすぎるお洒落なカフェでごはん食べようか。
浴衣着てる君の手を引いて花火を観に行こうか。
イルミネーションを見にいって素直に綺麗と思って君といるこの時間がかけがえのないものだと握った手を強く離さないで感謝を伝えようか。
もうすぐ着くよ何か買ってくる?って電話してきた君に調味料とちょっとした野菜をお願いしようか。
2人で料理しながらあーんして2人して照れようか。
好きな映画2人で選んでパピコはんぶんこして、一緒に観よう。
なんとなく長電話もしてみよう。
君が行きたかった所にイヤイヤながらちゃんと一緒に行こう、そして最後は変わらず仲良しでいよう。
ネットで見た有名店を前もって予約して、君の誕生日にいつもより贅沢してみよう。
行列にも並んでみよう、そして、並ぶほどじゃなかったねって笑いあおう。
何にもない日だけど花を買って帰ろう、ついでにケーキやお菓子も買って帰ろう。
お互い向かいあって、言いたかったことぶつけまくってケンカもしてみよう。
いちゃいちゃして簡単に仲直りしていつもより火照ったお互いを求めあおう。
アメリカ映画みたいに布団に入ったままホットコーヒーを一緒に飲もう。
大型スーパーにでもいってデートしよう、周りがリア充って苛立つくらいカップルって思われようか。
写真に写るのは苦手だけど、スノウをしたがる君に負けてみて、たくさん一緒に自撮りしようか。
旅行もたくさん行こう、そして2人の写真をたくさん飾ろう。
それでも永遠に結ばれる事がない不可視な糸がが2人に芽生えて別れが余儀なく来るかもしれない。
そのときはちゃんと顔をみて本音でぶつかって別れよう。
2人別々に生きていくけど思い出は自然と人間の記憶力だけに任せよう。
そして2人また別々の人を愛して、別々の人を幸せにしていこう。経験を活かして同じくらい、またはそれ以上に優しくなって、幸せにしていこうか。
やがて子どもができて、3人でそこそこな生活をしよう、犬も飼おう、猫も飼おうか。
たまには友達を招いて食事会でもして味もわからないワインに鼻を利かそう。
喜怒哀楽に満ち溢れた日々を送って、たまに暗闇に行きたがる僕の手を取って何も言わずに一緒に前を見てくれたらな。
死ぬときは幸せに、笑って死のう。
考えればかんがえるだけ、僕にとって未開拓な刺激は幾らでもある。幾らでもあった。
取り戻せない、取り返しのつかない事もたくさんあるのだけど、手にする事が出来なかった思い出が今、違う思い出をくれた。
そう思うと、生きるのも悪くないものだ。
どこまでも、どれだけ自分を信じて、自分を信じてくれた人に向き合えたとき。
きっと僕は幸せを感じて、1人また感慨深くなってしまう。
きっとその瞬間、僕は壊したくて逃げたくて捨てたくなってしまう。
だけど、僕の心には色濃く残る。
壊した分だけ、逃げた分だけ、捨てて突き離した分だけ、君の顔がいつまでも根強いている。
お互い別れても、また別々の人を好きになって、別れた傷が大したことない事に気づくんだ。と、話した事がある。
君はあのとき、怒ってみんながみんなそうじゃない。といった。
でも今となって思うんだ。
あれは君に話した事じゃなくて、自分自身に言い聞かせただけってね。
自分がそうじゃないと分かっていたからこそ冷たく格好つけたんだろう。
格好良くはなかったけども。
今も変わらず、僕は思い出に執着していて、手離せないでいる。
なんでもそうだ。感慨深いと思ったら抜け出せないでいる。
忘れたくない、考えないでいたくない自分がいるからもう仕方がない。
でも、あのときみた
おじさんおばさんのようにどこまで心が若返る瞬間に戻れる思い出をたくさん作りたくなった。
これから、ここから、新しい思い出を作る事も悪くないかもしれないと思えた。
新しい思い出を作るということは、誰かと向き合うということ。
僕にはまだまだ亡くすには足らない喜怒哀楽が多く存在していると分かった。
また、誰かを愛してみたい。
また、誰かを心配してたい。
誰かを思って寝れないでいたい。
誰かを思って会いたくなりたい。
たくさん会おう、会えなくなるときを待たずにたくさん会おう。
たくさん笑おう、笑えなくなるときを悲しまずたくさん笑おう。